2014年8月16日土曜日

神のなさる事は、すべて時にかなって美しい

今日ほんとうに偶然に長年の友達に会うことができました。 

と、いっても春にもあっているのだけれども、複数人で会ったので深い話等せず分かれたのですが、 今回は二人ということもあってかなり深ーい話をいたしました。 

あー、なんだか闘病ブログじゃなくて宗教ブログになっていきそうなーW 

そう、ほんとに偶然にその子は数年前に洗礼を受けたそうで、私が聖歌隊に入っているっていうのをきいて聖公会ってどんなところ?って興味があったそう。 

で、たまたま最近闘病と免疫力とイェスの愛について書くことが何度かあったんだけれども、それを読んでくれてこんな話を私としてみたいと思ってくれたみたい。 

ありがとー。

 そして、彼女が私のためにお祈りしていてくれたこともききました。

 ありがとー。 

もうね。なんだろう。帰り道思い出しながら帰っていて泣きながら自転車に乗る怪しい人になってました(苦笑) でもね。ほんとにうれしかった。 私、大事に思われているんだ!そう思うだけで心が温かくなって、うれしくなって、涙が出てくる。 うれしければただニコニコしてるだけでいいじゃん!って思うんだけど、なんだろうねぇ、涙が流れるんですよ。

 そしてね、彼女と「赦す」ということの難しさを話していたんだけれども、彼女はほんの小さなことからやっているっていってどんなことをしているかを話してくれたんです。

確かにほんのちいさなこと。そのことをきいたとき、私も「それでいいんじゃないかなー」ってうなずきながらきいていたんだけれども、帰りの電車のなかでその話をふと思い出し、自分の身に置き換えてみたとき、ああ、私はあれほど赦せないと思っていた妹を既に赦しているっておもった。彼女も彼女の赦せない人をもはや赦しているって。

 赦すってすべてを受け入れて近くにいるっていうイメージがありますけど、そうじゃなくて、相手を受け入れて遠くに離れているっていうのでもいいんじゃないかって。 受け入れるっていうのも、別にすべてを受け入れる必要ないんじゃないかな。 あの人はそういう人だっておもって、その赦せない部分を神に向かって祈り、手放していくことをしていくだけでも受け入れていることになるんじゃないのかな。

 そうしておもえば、もう私たちは赦せないと思っていた人をすでに赦してるんじゃないかなって思ったんです。 

そしたらまた思い悩んでいたことがなくなって気持ちがかるーくなりました。 
気づかせてくれてありがとう。 
今日こうやってこんな話ができたのも神のみ業なのかな?と思いました。

まさに
「神のなさる事は、すべて時にかなって美しい」


何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時。
 殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時。
 泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時。
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時。
求める時、失う時
保つ時、放つ時。
裂く時、縫う時
黙する時、語る時。
 愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
「コヘレトの言葉3章1~11節」

 私は知った
人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と。
人だれも飲み食いし
その労苦によって満足するのは 神の賜物だ、と。
 「コヘレトの言葉3章12~13節」

0 件のコメント: